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しんと静まりかえった吹き抜けで、過ごしているとこの世界はじつは安寧と平和に充ち満ちているのではないかと思われてくる。TV報道の戦争や事故や犯罪は作り上げられた現実なのではないか、なんて風に思われてくるのだ。なぜなら人間は不幸なしでは生きていけない種族だから。
たしかに「原罪」意識なしではキリスト教徒でなくとも生きていけないのかもしれない。原罪を意識して初めてひとは救いを求めることができるのだから。原罪は救済の必須条件である。そしてもちろんTV等の報道は事実だろう、100%とはいえないまでも事実に違いはなくしかも一面の真実を提示している。
午後8時近くなると日もとっぷりと暮れて外は漆黒の闇になる。月があればその強烈な光で遠くの山並みまで見通せるのだけれど、今夜は月はない。鹿除けに点灯している明かりの周囲をのぞいて真っ暗な空間が広がっている。
何の物音もしない。この建物の中にいる僕らと、中庭にいるパルの気配だけが感じられるすべてだ。
きのう昔の蓼科高原日記のことを書いたから、少し引用することにする。たとえばこんなことを書いていたのだ。
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(2001年5月31日の日記より)
「社会につぶされた」人間を救うことができるのは心理学ではないと体験的に確信しています。精神医学でもありません。もちろん手助けにはなりますが、本質的には本人の心が変わらなければ「そのひとの世界」は変わりません。何一つ変わりません。変わったと感じてもそれは幻にすぎません。
必要なのは実存にかかわる哲学であり形而上学的思考であり認識に関わる鍛錬です。しかし、だからといって理屈を理解する必要はありません。ものの見方(認識すること)を学ぶこと、そして自分がどのように「在る」かを認識することです。
自分を客体視することと客観視することを混同しないでください。あなたはモノではないのです。いわんや売るべき「商品」ではない。あなたは(サルトルの言葉を借りれば)「実存」する。あなたは「モノ(即時存在)」ではなく、「意識(対自存在)」なのです。
あなたが「モノ」でないのと同様に「他者」もまた「モノ」ではありません。だから「あなた」と「他者」とは等価です。だからこそ殺人者は自分の命をもって罪を贖(あがな)わなければなりません。それが命の大切さを知らしめる唯一の現実的システムです。
横道にそれました。
ことばを変えましょう。「ありのままの自分」を受け入れること。
それができたとき、人は自ら築き上げた自分という檻から解放されます。
幸福とは自分がありのままの自分でいられること。自分が自分であるという揺るぎない確信。そしてそのような自分であることが許されること。ありのままの社会においてではなく、限定された「自分の居場所」でしかそれが許されないとすれば、それはとても悲しいことですが、「自分の居場所」を見つけることができれば上々のできじゃないですか。
本来「アイデンティティ」とはそのようなものです。自分を他人という歪んだ鏡に映して「自分はこういう人間だ」などと自己規定してゆくことではありません。あなたがよく知っている(と思いこんでいる)「あなた」は実は本当の「あなた」ではないかも知れません。
あ、ずいぶん説教くさいことを書いてしまいました。(^_^;)
ちょっと思うところがあったもので・・・。
でも、論文のレジメに近いのでほとんど意味不明かも・・・。すみません。(^^ゞ
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というようなしだいなのだ。
そんなことを考え続けていた、そんなことばかり語り続けていたようだ。コマーシャルサイトとしてはきわめて異例で落第といわざるを得ない。もちろんいまも同じようなスタンスで書いているのだから現在も落第サイトであることに変わりはないのだけれど。
そのときの想いを記すのが日記であり、その日の出来事を記録するのが日誌であると考えている。日記なのだから、このような方向性もありなのではないかと考えているし、じつのところ、これ以外のスタイルではとてもじゃないけれど毎日書き続けることは不可能なのだ。
そんなに都合よく日誌にふさわしい出来事が起きるわけではないからだ。ひととひととの間の出来事を書いていいのならばニュースには事欠かないかもしれないけれど、それではその人たちや自分のプライバシーを守れないかもしれない。それが、この日記に公人以外の人の名前が登場しない最大の理由だ。
実は僕がもっとも書きたいのはひととひととの関わりのことだし、写真だって自然の写真以上に人間をその内面に迫るような写真に写し取りたいのだ。そのようなジレンマを内包しつつ蓼科高原日記は続いていく・・・・・といいなあ。
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