曇り 気温:最低 8℃/最高 18℃
いま僕は無音の中にいる。全く音のない世界にいる。まるである種の不可思議な夢の世界のように、ここは静謐に満ちている。しかし、僕は眠っているわけではない。ラウンジの吹き抜けの例の大テーブルにいて ThinkPad の心地よいキーボードをたたいている。
だからこれは現実としての静寂ではなく、観念としての静寂といえるかもしれない。僕らは日常的に知らず知らずに観念と概念と、そしてこうあらねばならぬというゾルレンに支配されている。しかしこの静けさは常識的にいって「本物の」静けさだ。
僕が立てる物音のほかは何の音もしない。僕の気配のほかには何者の気配も感じられない。寂しさや怖ろしさはない。それはこのような漆黒の闇夜でも変わることはない。このような大自然の中で14年も暮らしてきたものならではの感覚かもしれないけれど。
柔らかな感触の闇がアルミサッシの隙間から館内に流れ込んでくる。それはまるで真冬のすきま風のようだ。いやむしろそれは厨房から漂ってくるご馳走のにおいのように、という方が近いかもしれない。その闇は煙のようでもあり、空間を漂う墨のようでもあり、いずれにしてもとても柔らかで優しい感触がする。
いま僕は厚手のコットンのパジャマの上にノースフェイスのリップストップナイロンシェルのダウンパーカを羽織っている。真冬用のそれを着てちょうどよい心地がする。それほど山の夜は冷える。しかし不快な冷え方ではない。
鹿除けに点灯した明かりのおかげで、敷地内に野生の鹿の群れが入ってくることがなくなったようだ。同時に狐や狸もシベリアンハスキーのパル君の領土侵犯をしなくなったようだ。それでようやく彼も夜間多少安眠できるようになった様子だ。
蓼科高原は平年より二週間遅れの花暦になっているようで、そろそろ標高1500m付近でもレンゲツツジが咲き始めたようだ。ということは白樺湖から車山にかけてある群生地もそろそろ見頃になるのだろう。今年は是非写真撮影に出かけたいと考えているのだけれど。
蛍光オレンジの鮮やかな花は新緑に覆われた山を背景にとてもよく映える。それは夢のように美しいものだ。一度見てしまうと病みつきになる美しさだ。蓼科はまだ梅雨入り前、ドライブには絶好の週末になりそうだ。
載せたい写真は手元にたくさんあるのだけれど、文章とのバランスを考えるとなかなか選択が難しい。正直なところどの写真をどこに載せるか、ということではなくむしろ、そもそも写真を載せるべきかどうかという選択において僕としては悩んでいる。
僕は映像芸術としての写真をこよなく愛している。その一方で文章から広がる無限の想像の世界を一撃で破壊してしまう写真というものを心から憎んでもいる。それは写真の持つ多義性と文章の目指す一義性のせめぎ合いでもある。
僕はそのことをもっと学ばなくてはならない。
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