晴れのち曇り 気温:最低 13℃/最高 19℃
晴れなのか曇りなのかよくわからない。陽射しはあるのだけれど、建物を囲む森に遮られて(だから涼しいというのもあるのだけど)それは木漏れ日になってしまうので、直射日光を浴びるためには建物から少し離れなければならない。
きょうは頻繁に雲がやってきては通り過ぎていく。ここは雲や雲海の通り道なのだ。ここに住むようになって数年たってようやく気づいたのだけれど、山を眺めると微妙に森の色が濃かったり薄かったりして絵画のように綺麗でしょ?
あれは雲の影なのだ。もちろん、暗くというか緑が濃く見える部分が、雲の「影」なのだ。どうしてこれまで気づかなかったのだろう。
そんなふうに思ったのも、もうずいぶんと昔のことになってしまった。
深夜、というかもう未明だけど、ラジカセから流れるジュリー・ロンドンの「思い出のサンフランシスコ」を聴きながらこのエントリーを書いている。春だったらもうすぐホトトギスが鳴き始めるころ合いだ。でも、それはない、もう秋だから。
居室のすぐ外で眠っているシベリアンハスキーのパルはもうすぐ13歳になる。人間でいったらもう90歳くらいなのだろうか。すっかり耳が遠くなって、聞こえたり聞こえなかったりするようだ。僕らの呼びかけも彼には届かなくなってきた。
しかたのないことだけど、人間より寿命の短い動物と生活を共にすることはつらいことでもある。僕は彼の若かりし頃のこと、幼かった頃のことをよく思い出す。なにをするにも大儀そうないまの彼の中にその姿を見いだそうとじっと見つめる。それは不確かな残像として彼の周囲に漂っている。とどのつまり、歳をとるということはそういうことなのだ。生きるということはそういうことなのだ。
日の出があるのと同様に、あたりまえのこととして「夕暮れ」がやがてやってくるのだ、だれにでも。人生のピークを過ぎてから久しい僕にだって、同じようなことが起こっている。僕は夕暮れに向かって家路を急ぐ子供のような気持ちでいる。
遊び疲れて泥まみれで空腹で、安息の地としての家に帰ろうとしている。生きて、やがて死んでゆくというのはそういうことなのではないのだろうか。もちろん、これはメタファーだ。
すくなくとも僕はすでに人生の秋を迎えている。あたりまえのこととして僕はそれを受け入れている。まだまだこれからだ、という考え方を「あえて」しないでいる。人生にはその年齢、その時期にしかできないことがあることを知ったからだ。「まだまだこれからだ」なんてがんばっちゃう必要なんて無いのだと思う。
もちろんひとそれぞれだから、名実ともに「まだまだこれからだ」というひとだってたくさんいるに違いない。それは素晴らしいことだと思う。でも、僕に限っていうならば、別に元気がない訳じゃないのだけど、そういうことなのだ。わかってもらおうとは思っていないけど。
生きること、死んでいくこと。そこからくみ取れること学ぶべきことがたくさんある。高原の森で暮らすということは、そういうことなのだ。イデオロギーとは無縁の世界で、生き様死に様を野生から自然から学ぶということなのだ。
長い思索のはてにたどり着くのはいつも同じこのような結論だ。
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