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iTunes Store をブラウズしながらいろいろな音楽を試聴していると、このように限定的な世界においてすら、めくるめく素晴らしい音楽であふれているのだということを知る。このような素晴らしい音楽たちと出会いそれを聴くことが出来ただけでも、生まれてきた甲斐があったというべきなのかも知れない。
もちろんそれには音楽に限らず文学や絵画や映画やありとあらゆる芸術作品との出会いも含まれ、ひととひととの出会いも含まれ、「いま・ここに・ある」だけで感じることのできる至福、地上の楽園なのかも知れない。
もちろんそれは「かりそめの」という限定付なのだけれど、それでもなお僕は生きていて良かったと思うのだ、そのような出会いと感動だけのためにでも生きていたいと思うのだ。いまだに自分の存在価値、存在の意味を知ることのかなわない身ではあるけれど、それでも生き続けていきたいと思うのだ。
二十歳の頃、僕は「もし、なにものをも創造することができないのならば、いったい自分には生まれてきた価値があるのだろうか?」と自らを問い詰めていた。それはその後の人生においても、不吉な呪文のように僕につきまとうことになった。生き方や考え方を変えようと思っても、この呪文は僕を手放してはくれなかった。
そしていま気づく。その呪文からすっかり自由になっている自分に。
僕はいつの頃からか、自分を規定することをやめたのだった。自分はこれこれの能力を持っていますとか、技術がありますだとか、このような美点を持っていますとか、このような欠点がありますだとか、このような人間なんですとかいうことをやめてしまったのだった。
自分を定義することをやめると、人は自由になれる。
セルフ・アイデンティティーとは「自分が自分である」という確信以外のなにものでもない。それは自分の仕様書をつくることではない、自分を定義することではない、自分についてプレゼンテーションすることではない。
ただ、「いま・ここに・ある」ことこそが、すなわち自分の存在理由(レゾンデートル)なのだ。
そんな単純なことを、この歳になってようやく知った。
いささか恥ずかしい。
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