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朝のうちとても良いお天気になった。例年以上にたくさんのウグイスが鳴き交わし、それ以外の野鳥の歌声もいつも以上に賑やかで今年の春はなんだかうきうきしてくる。今日は蓼科区の住民による区内一斉清掃だった。蓼科区というのは街でいうならば町内会とか○○自治会に当たるもので、まあ、同じようなことをここ蓼科で行っている。
ただ、このような観光地であること、観光業に携わる人が多いことから実際の運営や活動はそうした生業の人たちがメインで行っている。そしてこのような土地では、市に次ぐ行政区なみの強い力を持っていることも特徴だと思う。どんな組織でも良い点と問題点とを内包していると思うけれど、蓼科区や蓼科高原にある他の区に関していうならば、良い面の方が圧倒的に昨日していると感じているし、じっさいに無くてはならないものになっている。
区の原型は昔の「隣組(となりぐみ)」だと推察しているけれど、最初は「大政翼賛会(たいせいよくさんかい)」の幻影を感じてなじめなかった。しかしそのうちに、残っているのはかたちだけで、時代の要請に応じてその実態は変化してきていて、近代化、現代化が図られている。観光地という土地柄もあるのかも知れない。他の地方では、昔ながらの封建的な地域住民を支配するような隣組組織や区があるようにも聞く。そのあたり、狭いようでいて日本は広く多様性に富んだ国なのだと改めて感じる。
それはさておき、区内清掃といっても自分の身の回りというよりはビーナスラインなどの沿道の「ゴミ拾い」や側溝の清掃がメインになっている。そうなのだ、行政が業者を雇って清掃しているのではないのだ。われわれ住民がクルマから投げ捨てられたたばこの吸い殻や、ビンや缶や弁当の入れ物や残飯を手で拾って片付けているのだ。
そのようにたばこの吸い殻やゴミを捨てる人間はいったいどんな人物なのだろうか。投げ捨ててしまえばそれはこの世界から自動的に消えて処分されるとでも思っているのだろうか。特に都市部においてもところかまわずたばこの吸い殻を投げ捨てたりつばを吐くひとに問いたい、あなたは自分のやっていることの意味がわかっているのだろうか、と。
すくなくとも自分の吸ったたばこの始末を自分でできない人間には「愛煙家」を標榜する資格はない。個人的には文化としての喫煙あるいは嗜好としての喫煙を認めるものだけれど、そのことに自分で責任を持てないならば、他の多くのこと同様それを行う資格はない。
ということで、毎回この「ゴミ拾い」を行うたびに大きな怒りがわき上がってくるというお話しでした。このことは都市で清掃活動を行っている多くの住民にとっても同様だと思う。これはモラルやルールの問題というよりはもはや刑事罰を設けるべき段階に来ていると思う。
まさに人間としての、あるいは社会としての「品格」が問われているのだ。
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