創造され現れるものとしての世界
この世界は「神」によってこのようにある。ただ意味もなく存在する。「無意味性」はこの世界の本質である。「啓示」はわれわれのインスピレーションに過ぎない。
昨日僕はそのように書いた。これは僕の世界観である。しかし孤立無援の世界観ではない。
ヴィトゲンシュタインは言った、「神秘的なのは、世界がいかにあるかではなく、世界があるということなのである」。
我々は時間の中に内包されるものではない。サルトルが言うように人間実存とはそのようなものではない。あるいは、クリシュナムルティが言うように「思考が時間である」。
ラビンドラナート・タゴールは言う、
「時間は精神的な装置であり、存在しているものの相対的な位置を測るために私たちが使っている概念なのである。」
「もしリアリティをめぐるすべての知識が経験にはじまり経験に終わるとするアインシュタインが正しいならば、出来事の意味を汲みとる源となるような外郭のリアリティは存在しないことになる。」
「われわれの知覚がそのようなものであると受け止めたもの、それが世界だ。そのことを疑う者はいない。われわれは心とは鏡のようなもので、外の世界の出来事を正確に映し出すだけだと思っているからである。ところが、じつは反対で、心のほうが創造しているのである。つまり、ひとは世界を知覚することによって、自分の世界を、時間と空間の中に絶えず創造しているのである。」
折に触れて僕が言う「我々の外に景色(美・あるいは世界)は存在せず、それは我々の心の中に構成されるものなのだ」というのはそのような意味においてである。
昨日僕が書いたことは、彼らの考えに影響されたものではなく、僕自身の直感である。しかし僕は自分が孤独な夢想者でないことを知ってうれしかった。
「いまある現実はあなたが同意することによって、そのように存在している。だからあなたはあなたの現実に責任がある。」このような自分の認識に僕自身堪えがたいところがあるのだけれど、これは真実なのだ、たぶん。
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