以下は観ての通りだいぶ昔の「蓼科高原日記」の記事である。
とても長い文章なので、携帯からアクセスしている方は覚悟していただくか読むことを断念した方がいいかもしれない。
☆☆☆
2003.01.13(月)----天気:晴れ 気温 = 最低 -8度/ 最高 0度
村上春樹の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を読み終えた。初版本がでてすぐ読んだから初めて読んだのは1985年6月、いまから18年ほど前のことになる。僕が高校生なら「一生」分の歳月が流れたことになる。当時僕はそろそろ変調が出始めてはいたがまだ33歳のばりばりの電通マンだった。
その後も何度か読返そうと思ったけれどその度に、なぜか途中で投げ出してしまった。初回はかなり興味深く読むことができたのだけれど、2回目以降はなんだか「つまらなく」感じられてしまったのだ。しかし、いま村上作品を読み解く鍵のほとんどすべてがこの作品で語られているような印象を抱いている。
「ノルウェイの森」にある種の男性のセンシティヴな人生観のほぼすべてが書かれているように、この作品には村上春樹そのひとの「自伝的」ともいえる人生との向き合い方が描かれているように感じる。そのような感想を持ったのは今回が初めてのことだ。初めてとはいっても最初から最後まで一気に読み通したのはこれが2回目なのだけれど。
そのように共鳴できたのは僕の年齢的なものなのかも知れないし、あるいは僕の現在置かれた状況的なものが作用しているのかも知れない。いずれにしても僕のこころが強く魅かれたのは作品に登場する女性たちの存在だ。他の作品でもそうなのだけれど。
彼女達のような女性は現実には存在しないだろう、たぶん。生身の女性はあのような存在ではあり得ないから、本人を含めて誰がどのようにありたいと望もうとも。そうした意味において、彼女達は男性が(勝手に)思い描く「憧憬」なのかもしれない。女性に疎い(うとい)僕にはわからない。
それはさておきひとつの発見があった。それは「こころ」は「感情」やその最高(?)の形態である「愛情」の「いれもの」ではない、という事実だ。したがって「愛」はあっても「こころ」が無い、という状況がありうるということ。これは男性から見れば女性のある種理解不能な「愛」の観念あるいは感覚を読み解く鍵になるのかも知れない。
女性のことは男性の僕にはわからないけれど、男性としては「愛」とは「愛で充満したこころ」そのものであって、自分の全存在をかけた「行為」であるのかもしれない。女性は愛の証として「愛」そのものを差し出すが、男性は愛の証として自分の「こころ」と「肉体」そして自分が手に入れたすべての地位や名誉や富を差し出さずにはいられない。しかし、これは取引としては割に合わない。
かくして男性と女性とは決定的に異なった「愛」をかわしているのだと思う。言うなればお互いの「ニーズ」が異なっているのだ。それはそれで美しいし、素晴らしい体験なのだから、それでいいと思う。ただ、おたがい(だからって)文句は言うなよ!
ひとのこころの儚さ弱さを知れば「永遠の愛」なんていうものは「言葉のあや」にすぎないことを認めざるを得ない。「愛」は至高の存在ではない。それはメタファーであり便宜的な「価値づけ」である。至高なのはひとの「こころ」の存在なのではないか。こころが無くても愛は息づくことができるが、それは「愛」と名付けられた「こころの影」でしかない。
本来的な意味では愛とは「こころの共鳴」であり「こころの連帯」である。もしそうであるならば互いに勇気づけあい癒しあうことができるかも知れない。
その観点からすると、いまのぼくは誰にも愛されていないし誰かを愛してもいない。とても哀しことだけれど。愛するためには膨大な生命力が必要だからだ。いまの僕にそんなパワーはもはや残っていない。誰にも助けを求めることかなわず、誰にも癒されることかなわず、死してなおだれ一人涙を流し「鎮魂」を願うもの無し。
(つづく)
☆たてしなラヂヲ☆
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