雪のち雨 気温:最低 - 7℃/最高 3℃
東京では初雪の前に「春一番」が吹いたのは観測史上初とのことですが、ピラタスの丘でも「春一番」と思えるような強い風が吹きました。ペンション・サンセットの正面から雨が吹き付けてまるで冬とは思えない一日になりました。朝のうち雪が降り霙(みぞれ)に変わりそして雨になったのです。唯一冬を実感させるのはこの気温だけでしょうか。
とても静かな一日でした。それはぼくの内面的な条件がそう感じさせるのか、本当にそうなのかさだかではありません。まあ、それでなくてもここは静かな場所ですから、それにすっかり慣れてしまったぼくが「静かだ」というほど静かだったのでしょう。
耳の奥からきーんというあの静寂の音が聞こえてきます。今日ぼくはひたすら眠りました。昨日この日記がちょうど「ほぼ10年」を迎えたことを認識して以来、急激な睡魔と疲労感がぼくを捉えたのでした。ただただひたすら眠りこけた一日でした。そしていま「再生」した、いや、「蘇生」したといったほうが当たっているかも知れません。
人生にはまだまだ「つづき」があるのです。いつ「突然」終わるかも知れないのですが。まあそういうことで、この日記は生きている限り書き続けようと、そう思うわけです。そういう意味では自分のために書いているということなのかも知れませんね。山を登るときのように、淡々と粛々と歩みを進めるわけです。
人生に関しては茫洋(ぼうよう)として展望が開けないのですが、仕事に関しては、いま計画しているのはフラッシュを利用した現在のペンション・サンセットのご案内に移行する以前の「うんちく」や「こだわり」を語った「旧いご案内」の内容をダイナミックにご覧いただけるようにブログシステムに移植しようということです。
立地、施設、料理、天然酵母パン、アメニティーなどなど、カテゴリー別にご覧いただくことも可能ですし、アップデートされた内容へのアクセスも簡単になります。なによりも最新情報を更新追加しやすくなるので、大いに「うんちく」を語りやすくなりますから。日々進化するサービス内容をタイムリーにお伝えすることが出来ると思います。
それにつけても、自分もこの10年でずいぶん「毒気」が抜けたなあと思います。大人になったということなら良いのですが、そういうことではなくて覇気が無くなったというか戦わなくなったというか、なんかそっちの方が強いような気もしないではないです。
ペンションはお客様相手の商売ですから、商業的成功を目指すならばもっと早くそうなるべきだったのかも知れません。しかし、個人的信条として(心情としても)それはできなかった。いわば「啓蒙主義」という名の折れた剣で「それはちがうだろう!」ということどもに闘いを挑まないではいられなかったのかも知れません。まるでドンキホーテですね。
そして、なにも変わらなかった、たぶん。そのことによって唯一変わったのは、ぼく自身だったのかも知れません。なにも変わらなかったこと、なにも変えられなかったことによって、ぼくは変わったのです。もちろんぼくの本質はなんら変わるところはないのですが、それにかなり近いところでなにかがカチリと切り替わったのを感じます。
晴れ 気温:最低 - 10℃/最高 - 1℃
神はなにも語らずなにも指し示さない。それは神の仕事ではないからだ。したがって、宗教の起源はマハリシ(偉大なる観者)の直感であり、宗教の体系はその後を引き継いだ偉大なる聖者のインタープリテーションである。宗教をひとを操る道具にする輩は古来より存在し、それは権力者でありテロリストでありペテン師であった。いつの世でも変わらないのはイノセントな民衆の深い信仰心だけだ。
釈迦が得たのもそれであり、モハメッドが達したのもその境地であり、キリストが語ったのも(いささかメタファーが多いが)その世界である。アニミズムや山岳信仰などの原始信仰と宗教との決定的な違いはそこにある。神のお告げを受けたなどと言うイノセントな体験ではなく、始祖あるいは教祖と呼ばれるかれらは確かにそこに行ったのだ、その境地に達したのだ。
しかし彼らといえども「神」に会うことはかなわなかった。神の思惟する世界に触れたに過ぎない。しかしそれは偉大な業績に違いなかった。そして現代において我々はその恩恵に恵まれ、あるいはその災いに見舞われているわけだ。どちらにしてもそれはわれわれの責任であって、神には関わりないことではある。
同じ境地に達しながら異なった教義を唱えると言うことには蓋然性がない。それは後世に変質(ローカライズ)していったものと考えるのが妥当だと思われる。神が唯一無二であるならば、「聖戦」とよばれるような宗教戦争などありえない。宗派が異なるというだけで殺し合うなどという所行は、すでに神の世界からほど遠い愚かな人間の営みに過ぎない。そのことに神は一切関わりない。
だからぼくは宗教は信じない。しかしぼくは「神」を信じている。唯一無二の神を、この世界の成り立ちを。この世界があるということそのものが奇跡であり、神の存在証明である。だから、物語として奇跡を語る宗教をぼくは信じることが出来ない。そのような奇跡は神のなせる業などではなく、純真なひとびとの信仰とその想いが実体化した出来事なのだ。神は我々の世事には一切かかわらない。それは神の仕事ではない。
ひとそれぞれの神を、宗教を信仰するのはじつに自然なことだから、ぼくはひとのことには一切かかわらない、当然のことだけれど。これはぼくにとっての神のはなしに過ぎないのね。
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