曇りのち雨 気温:最低 - 1℃/最高 + 6℃
NHKの深夜の番組で原田知世のドキュメンタリーを見た。彼女の最近の音楽活動がテーマだった。AGFのブレンディーのCMでしか見ることができなかった彼女ももうデビュー25周年を昨年迎えたそうで、いま話題の「アラウンド・フォーティ」世代になっていた。しかし、あの映画「時をかける少女」の時よりもずっとずっと魅力的な女性になっていた。僕は格別彼女のファンではなかったのだけれど、今夜の番組を見ていっきにファンになってしまった。
まず、原田知世はこんなに歌がうまかったっけ、と思わせるほどに豊かな音楽性を身につけていたこと。自身の「時をかける少女」をセルフカバーしたライヴを聴いたとき、僕は彼女に恋をした。歌い始めから松任谷由実の曲だとはっきりとわかる歌い方ができるようになっているのは彼女の音楽にかける情熱と努力を感じさせたし、原田知世の代表曲がボサノヴァ・ギター1本の伴奏によるアカペラ風のアレンジになっていることにも感動した。ああ、本来はこういう曲だったのだと25年の歳月を経て感じさせられた。
同時に原田知世という女性はこういうひとだったのだと今日初めて知ったような気がした。じつにシンプルに、ナチュラルに彼女は存在していた。そんな彼女を僕はとても美しいと思った。外見が美しく心惹かれる女性はこの世にあまた存在するけれど、そこにいるだけでそのことに感動し存在の美しさを感じさせる女性は数少ない。彼女はその数少ない女性のひとりのように思われた。
なぜこんなことをぐだぐだ書いているかというと、このことを妻に話そうとしたのだけれどぜんぜん聞く耳を持っていなかったからだ。同じ女性である妻に他の女性を賞賛してみせる意図はなく、僕が感じたことを率直に話したかっただけなのだけれど。妻のことをクール・ビューティと表現する友人が結構いるけれど、どちらかといえばそうかもしれない。すくなくとも「クール」なのは事実だ。
僕が自由にいろんなことを書いたりやったりしていられるのは彼女のその個性のおかげなのかも知れないとも思っている。僕は妻と16歳で出会った。17歳で恋をして、本当にひどい振られ方をした。そして長いブランク。気がつくと彼女は僕の妻になってくれていた。もっと心が通い合う娘はたくさんいた。もっと感性を共有できるソウルメイトのような女性ともつきあった。もっと心優しい彼女もいた。しかし、僕が長い航海のはてに打ちあげられた浜辺で僕を待っていてくれたのは妻だった。最終的には彼女のクールさが僕に自由を与えてくれたのだった。
最近しみじみと思うのだけれど、この世界でもっとも美しいのはヒトなのではないだろうか。人間存在、と難しい言葉では表現するところの、そのような意味においての人間こそがもっとも美しいのではないかと思う。そのひとの在りようと言っても良いのかも知れない。僕はいまそのような美しさに心惹かれている。
この年齢になって、ふたたび恋の季節を迎えているのかも知れない。確かにいま僕は恋をしている。それは反倫理的なものではなく、きわめて抽象的なものかもしれない。そうならざるを得ないのかも知れない。あるいはメタファーとしての恋なのかも知れない。しかし、それは紛れもなく実体のある心の志向性であり、心の動きなのだ。はからずも心が動き、だれか、あるいは、なにかに恋をすることは誰にも止めることができない。だれもそのことを非難することはできない。それこそが人間の心のありようなのだから。それが人間存在なのだから。
今日は「戯れ言(ざれごと)」でスマソ。(-_-;)
雨 気温:最低 + 4℃/最高 + 9℃
昨夕から雨が降り始めた。いったいどうしたことか、この半年ほど急激に天気予報の精度が上がったように思われる。先日のTV番組でも的中率が80%以上なのだと報道されていた。本当に、いったいどうしちゃったのだろう、何か画期的な変化でもあったのだろうか。
昨日は午後から街に降りてコイン洗車場で愛車の下回りを中心に徹底的に洗車した。大量の塩化カルシウム(融雪剤)を撒く土地柄なので、下回りの洗浄をしっかり行わないとクルマの寿命が半分になってしまうのだ。
コイン洗車場も都会のそれにくべるととにかくだだっ広く、高圧洗浄機も大きくて強力だ。運動場みたいに広い洗車場のパーティションの中でひとりで洗車しているととてもレクリエーショナルな気分になってくるから不思議だ。まあ、山麓の街といっても標高800メートルの「高原」だからとっても「さわやか信州」なのだ。
山麓の街、茅野市は甲府盆地から南アルプスと八ヶ岳連峰の間を抜け諏訪湖・中央アルプスへと吹く風がいつもかなり強く吹いている。季節によっては風向きは正反対になる。昨日は甲府方面から諏訪湖へと吹いていた。その風は年間を通じてとても乾いている。真夏でも湿度は30%程度だ。
そのおかげで昨日も洗車後車体を吹き上げる前に、すっかり乾いてしまった。すっきり洗い上がった愛車は気のせいか少し機嫌が良いように見えた。
雨はその後も、時に激しく、時に静かに降り続いている。この時節の雨降りの日は日中といえどもとても静かだ。雪の降る夜ほどは静かではないけれど。それはひとえに春ならではのいのちの息吹の存在が大きい。森の樹木はざわざわと成育を始めているし、小動物たちも野鳥たちも次の世代へと命を繋ぐ活動を始めているのだ。
そんな様子を眺めていると、僕ら人類はそんな営みの観察者、あるいは認識者として存在するのかもしれないなあ、なんてふうにちょっと思ったり。
★★★
山麓の茅野市や諏訪市の桜は3分咲きです。ビーナスライン沿道の桜もきれいに咲き始めています。蓼科湖畔の桜もソメイヨシノ以外は三分咲き、聖光寺(しょうこうじ)の桜林のソメイヨシノは堅いつぼみがほころび始めています。このままいくとちょうどGWにあわせて満開になります。恒例の蓼科高原桜祭りのイベント開催日は5月5日〜6日に決定しました。
晴れのち雨 気温:最低 + 3℃/最高 + 16℃
朝のうちとても良いお天気になった。例年以上にたくさんのウグイスが鳴き交わし、それ以外の野鳥の歌声もいつも以上に賑やかで今年の春はなんだかうきうきしてくる。今日は蓼科区の住民による区内一斉清掃だった。蓼科区というのは街でいうならば町内会とか○○自治会に当たるもので、まあ、同じようなことをここ蓼科で行っている。
ただ、このような観光地であること、観光業に携わる人が多いことから実際の運営や活動はそうした生業の人たちがメインで行っている。そしてこのような土地では、市に次ぐ行政区なみの強い力を持っていることも特徴だと思う。どんな組織でも良い点と問題点とを内包していると思うけれど、蓼科区や蓼科高原にある他の区に関していうならば、良い面の方が圧倒的に昨日していると感じているし、じっさいに無くてはならないものになっている。
区の原型は昔の「隣組(となりぐみ)」だと推察しているけれど、最初は「大政翼賛会(たいせいよくさんかい)」の幻影を感じてなじめなかった。しかしそのうちに、残っているのはかたちだけで、時代の要請に応じてその実態は変化してきていて、近代化、現代化が図られている。観光地という土地柄もあるのかも知れない。他の地方では、昔ながらの封建的な地域住民を支配するような隣組組織や区があるようにも聞く。そのあたり、狭いようでいて日本は広く多様性に富んだ国なのだと改めて感じる。
それはさておき、区内清掃といっても自分の身の回りというよりはビーナスラインなどの沿道の「ゴミ拾い」や側溝の清掃がメインになっている。そうなのだ、行政が業者を雇って清掃しているのではないのだ。われわれ住民がクルマから投げ捨てられたたばこの吸い殻や、ビンや缶や弁当の入れ物や残飯を手で拾って片付けているのだ。
そのようにたばこの吸い殻やゴミを捨てる人間はいったいどんな人物なのだろうか。投げ捨ててしまえばそれはこの世界から自動的に消えて処分されるとでも思っているのだろうか。特に都市部においてもところかまわずたばこの吸い殻を投げ捨てたりつばを吐くひとに問いたい、あなたは自分のやっていることの意味がわかっているのだろうか、と。
すくなくとも自分の吸ったたばこの始末を自分でできない人間には「愛煙家」を標榜する資格はない。個人的には文化としての喫煙あるいは嗜好としての喫煙を認めるものだけれど、そのことに自分で責任を持てないならば、他の多くのこと同様それを行う資格はない。
ということで、毎回この「ゴミ拾い」を行うたびに大きな怒りがわき上がってくるというお話しでした。このことは都市で清掃活動を行っている多くの住民にとっても同様だと思う。これはモラルやルールの問題というよりはもはや刑事罰を設けるべき段階に来ていると思う。
まさに人間としての、あるいは社会としての「品格」が問われているのだ。
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